世界遺産の麓
世界遺産の麓には、それを支える街がある。
ツーリストたちは、しばし街に滞在し、人々の生活の場に足を踏み入れる。
一時的にとても身近な街となるが、しかし関心をもって、
地域の歴史や文化を知る機会は少ないように感じられる。
それらの街は、遺跡とともにどのような歴史を共有してきたのだろうか。
普段は影に隠れている街に、スポットライトをあてていきたい。
第1回 アンコール遺跡群への船着場
カンボジア・シェムリアップ その1
文/黒岩千尋
至高の塔バイヨン
世界遺産・アンコール遺跡群。9世紀初頭から15世紀に放棄されるまで、クメール帝国の代々の王たちが都城を築いた地である。その中心は、ジャヤヴァルマン7世(在位1181-1218)が建立したバイヨン寺院(写真1)。本尊は座仏像であるが、仏教、ヒンドゥー教、さらには全土の神々や祖先も祀られ、クメール帝国の中央寺院としての役割を果たしていた。寺院は屹立する塔群から構成される。それぞれの塔の四面には微笑みを浮かべた尊顔が刻まれ、クメール王朝時代の寺院建築を俯瞰してみても異質で独特な建築様式だといえよう。最も背が高い中央塔は、高さ約10mのテラスの上に高さ約43mまで石積みされ、その姿は遠方からも浮きたって見える。現在、この塔の構造安定化のために日本の専門家たちがカンボジアの修復技師たちとともに修復工事にあたっている*1。
三島由紀夫は、バイヨン寺院が建設されるまでを1969年に戯曲『癩王のテラス』に描いた。出来上がってゆく寺院と死にゆく王とを対比して「澄みやかさと鋭さと、この世の果て、この世の底をのぞく力、それがバイヨンを建てた力だった*2」と王の台詞を介して評している。建設から8世紀以上を経た今も、異形の建築は人々を圧倒しつづけている。
写真1…バイヨン寺院(最も高い塔が中央塔)©Takeshi NAKAGAWA
遺跡と街のつながり
そのバイヨンの頂から南へ、約7km先に今回の主題であるシェムリアップの中心部がある。アンコール遺跡群を訪れるツーリストたちが滞在する街だ。遺跡と街との緊密な関係性は、その明快な立地から理解される(地図1)。まず、2本の街路(Charles de Gaulle通り、Sivatha通り)が遺跡からシェムリアップの中心部へと人々を導く。さらに一筋の川(シェムリアップ川)が遺跡から街へと連なり、その流れがゆるやかに湾曲する地点が街の中心部。中央にオールド・マーケット、その周囲にはフランス植民地時代に建設された1階が店舗、2階が住居のショップハウスが立ち並ぶ(写真2)。
地図1…アンコール遺跡群〜トンレ・サップ湖まで(図右が北、筆者作成)
写真2…中心部の街並みとシェムリアップ川
コロナ禍以前には年間220万人超のツーリストを受け入れていたエリアだ。ショップハウスのほとんどが、ツーリスト向けのレストランやショップとして利用されている。一方、約100m四方の街区いっぱいに大屋根で連なるオールド・マーケットは、みやげものだけでなく、現地住民が立ち寄る食材売場や日用品売場など、495店舗が所狭しと並んでいる(写真3)。中心地区を離れると、さらに住生活と観光機能は混沌とする。
例えば、大型ホテルの裏手には地元の学生たちが集う高校。さらに、ゲストハウスの開発地区にはポツンと高床式住居が残っている。
この地が国際的なツーリズムの拠点となったのは1990年代のこと。国際協力を通じてアンコール遺跡群を修復し、内戦後のカンボジア全土を復興しようという機運の高まりと同時期である。1991年にパリ和平協定、1992年にUNESCO世界遺産登録、1993年に国際会議ICC-Angkorの枠組構築、1995年にカンボジア政府遺跡管理局であるAPSARA機構創設。90年代を通して遺跡救済のための国際的な体制づくりが迅速に行われた。それから現在まで、街はカンボジア観光の一大拠点として拡大しつづけている。
写真3…オールド・マーケットに
日中だけ出現する生鮮食品売り場
©Chihiro KUROIWA
歴史のなかのシェムリアップ川
では、かつてのシェムリアップの街は、アンコール遺跡群に対してどのような位置づけにあったのだろうか。近代以前のシェムリアップの様子を知る手がかりのひとつが、街と遺跡をつなぐ「シェムリアップ川」である。
現在、海外からシェムリアップに訪れる多くの人々は、国際空港から国道6号線を通り、街へと入ってくる。一方、クメール帝国時代のアンコールへの主要なルートは、①「王道」と呼ばれる陸路、もしくは、②シェムリアップ川やトンレ・サップ湖に連なる水路網、のどちらかであった。ジャヤヴァルマン7世没後の1296年頃には、元朝の使節団がアンコール都城を訪れている。その使節団の一員である周達観は、『真臘風土記』に次のような記述を残している。
査南(コンポン・チュナン)より小舟に乗り換え、水に順って十余日ばかり〔行く〕と、半路(途中)の村である仏(ポーサット)という村を通過し、淡洋(トンレ・サップ湖)を渡って、その干傍(コンポン)という地にいたることができる。〔そこから都〕城に進みおもむくのに五十里である。
--周達観著、和田久徳訳注『真臘風土記』「(一)総叙」(平凡社、1989年)
これは、彼らがアンコール都城へ赴いた際のルートの説明である。中国からベトナムへは湾岸を、メコン・デルタ(ベトナム南部)の河口からトンレ・サップ湖へは川を船で進んだ。さらに湖の入り口で小舟に乗り換えて、湖のほとりにあるポーサット村に立ち寄りながら、干傍(コンポン)という地まで来ている。都城から五十里に位置するコンポンは、現地の言葉で「船着場」を意味する。当時の五十里は約29.5kmであるので、「コンポン」は湖からシェムリアップ川へ入る河口周辺であったと考えられるだろう。
コンポンから都城へ、周達観らがシェムリアップ川を遡上したのか、陸路をとったのかは判然としない。事実、湖の河口にほど近い丘上に立地するプノム・クロム寺院周辺から都城までは、シェムリアップの中心部を経由して陸路も存在していたことが、1860年にアンコール遺跡群を訪れたフランス人探検家アンリ・ムオの旅行記でも述べられている*3。
一方、15世紀頃からシェムリアップ川沿いには上座部仏教寺院が点々と築かれはじめたようだ。オールド・マーケットの対岸に位置するワット・ダムナック寺院では「古都アンコールを懐かしんだ僧侶が、プノンペンから湖を経由し、シェムリアップ川を遡上し、それ以上進めなくなったところで舟を下りて寺院を築いた」ことが由緒として口承されている*4。
シェムリアップやアンコール遺跡群周辺は1907年にフランス領下に置かれた。1913年刊行の報告書では「(シェムリアップ川の)両岸は木製の橋で結ばれ、街の中心部には瓦葺きのマーケットが建っている。川はそれほど幅がないが枯渇することはない。住民たちは乾季の間、灌漑に必要な水を引くために川岸に水車を設置している」ことが記述され、生活インフラとしてのシェムリアップ川の重要性も確認できる*5。
シェムリアップ川はアンコールへと至る主要ルートであり、シェムリアップ周辺はアンコール遺跡群への入り口となる船着場のような場であった。それと同時に、人々の生活の礎であったことが言えよう。シェムリアップ川を通して、アンコール遺跡群の麓としてのかつてのシェムリアップの様相が少なからず想い起こされるだろう。(続)
* 1…現在、JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)により修復が進められている。(https://angkor-jsa.org/about/)
* 2…三島由紀夫『癩王のテラス』中央公論社、1969年
* 3…Henri Mouhot「Voyage Dans Les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos, et autres parties centrales de Indo-Chine」Livre Hachette社、1868年
* 4…ワット・ダムナック寺院の僧侶への2019年12月のインタビューによる
* 5…Paul Durand「Géographie régionale de l'Indochine française. Territoire de Batambang」Imprimerie Commerciale C. Ardin、1913年
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